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大阪地方裁判所 昭和42年(わ)585号 判決 1968年7月17日

被告人 川原光敏こと馬場恒夫

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は

被告人は昭和四一年一一月二二日午後五時ごろより午後六時ごろまでの間、大阪市西成区千本通二丁目二五番地所在パチンコ店岸の里ホールでパチンコ遊戯をなしたが、数百円負けたため、残り玉約一〇個を床上に投棄したところ、これを同店々員に見咎められ、同店々員数名に取囲まれて罵倒された上殴打などされたことに憤激し、同店店員等を殺害してその憤懣の情を晴らそうと決意し、刺身包丁四本、肉切り包丁一本、文化包丁一本を携帯して、

(一)  同日午後七時二〇分ごろ、前記岸の里ホール内に赴き、居合わせた同店々員三島保雄(当時一八年)の右肩部を刃渡二〇糎の刺身包丁でやにわに突刺し、さらに攻撃を続行しようとしたが、突刺した刺身包丁の柄が抜けた間に同人において逃走したため、同人に対し治療約三週間を要する右上膊肩胛部刺創を負わせたに止まり、殺害の目的を遂げなかつた、

(二)  次いで同日午後七時二五分ごろ、前記岸の里ホールから西方約八五米の路上において通行中の才川松男(当時四一年)の右胸部を前同様刃渡の刺身包丁でやにわに突刺し、同人に対し右胸部穿透性刺創(肺肝損傷を伴う)の重傷を負わせ、同年一二月二〇日午前一時五三分ごろ同市城東区西鴫野五丁目八番地城東中央病院において同人を右刺創に基く肝膿瘍により死亡させた、

(三)  次いで同日午後七時三〇分ごろ、前記岸の里ホール前路上で、同店々員朱勤郎(当時四五年)の頸部、胸部等を狙つて刃渡約一六糎の肉切包丁で三、四回突刺そうとしたが、同人において肉切包丁を握持する被告人の右手首を握つて抵抗し、かつ隙を窺つて逃走したため、同人に対し治療約七日間を要する左耳介および腰部切創を負わせたに止まり殺害の目的を遂げなかつた

ものである

というのである。

よつて案ずるに、当裁判所が審理した結果によると、被告人が後述するように冒頭部分の時刻の点を除き公訴事実記載のとおりの犯行をなしたことはこれを認めることができる。

ところで、被告人の当公判廷における供述(第七回公判分)および司法警察職員に対する昭和四一年一一月二二日付、二五日付、二九日付、一二月六日付各供述調書ならびに検察官に対する供述調書、清水芳夫の司法警察職員に対する供述調書、鑑定人浅尾博一作成の鑑定書によれば、被告人は昭和三九年二月二五日地上約一六米のホテル工事現場の足場から墜落し、頭部外傷第二型、頭頂部割創、蜘蛛膜下出血と診断された瀕死の重傷を負つたことが認められるところ、鑑定人岡本重一作成の鑑定書および証人岡本重一の当公判廷における供述によると、現在における被告人の精神状態は頭部外傷後遺症として一括診断されるもので、内容的には軽い痴呆症と人格変化、感覚失語に属する言語障害、外傷性癲癇(特に精神運動発作を反復している)等の症状がみられること、本件犯行当時被告人は鰯癲癇性朦朧状態に陥つており、本件各犯行は右朦朧状態下の病的行為と認めることができる。

もつとも、鑑定人浅尾博一作成の鑑定書および証人浅尾博一の当公判廷における供述は、被告人は現在頭部外傷後遺症(健忘性失語症、軽度の脳器質性痴呆、頭部外傷性精神運動発作-朦朧状態-)に罹患しており、本件各犯行時朦朧状態にあつたとしながら、右朦朧状態は意識野の狭窄によるもので部分的には意識があること(もつとも右鑑定書では意識内容の変容をも認めるがごとくである)、本件は被告人がパチンコ店々員をやくざとみなし、これに対する憎悪に基き殺意を抱いたものであるが、いわゆるやくざに対する憎悪が前記受傷の前後で変らず、また、パチンコ店々員でない被害者才川に対しては贖罪の意識があること、幻聴、妄想など病的体験が存在しないと考えられることなどを理由として被告人が本件犯行当時是非善悪の判断能力を欠如していたものではないと解しているのである。

しかしながら、加藤勝三郎、岸山周司、東貞徳(昭和四一年一一月三〇日付)の司法警察職員に対する各供述調書によれば、被告人が罵倒、殴打などされてパチンコ店を出た時刻は午後四時半ごろと認められ、また、桶谷正信、上野実、谷口芳子の司法警察職員に対する各供述調書によれば、本件包丁は午後七時ごろ以後に用意されたと一応認められるがこの間の被告人の足どりはたどれないところ、岡本鑑定書には被告人がパチンコ店を出た時刻およびこの直後ごろから前記包丁を用意するまでの時間帯における被告人の足どりがたどれないことの指摘があること、また被告人の司法警察職員に対する昭和四一年一一月二二日付、三〇日付の各供述調書には被告人が自己のアパートを出て本件犯行現場へ向う途中焼酎一杯を飲んだことの記載があるが、桶谷正信、上野実、谷口芳子の司法警察職員に対する各供述調書によれば、被告人が自己のアパートを出るまでにすでに酒を飲んでいるかのような様子のあつたことが認められるところ岡本鑑定書(証言を含む)はこれを指摘するほか田中幸三郎の司法警察職員に対する供述調書に顕われている同人方における被告人の不審な挙動をも指摘し、さらに鑑定時にあらわれることは稀であるとされる朦朧状態の出現を確認していることその他当裁判所の審理に顕われた資料および綿密具体的なるテストに基き考察していることが認められるのに浅尾鑑定書(証言を含む)は必ずしも十分な検討がなされていないこと、ならびに、当裁判所が時間をかけて施行した被告人質問における被告人の挙動表情、態度、供述内容をも考慮するときいまだ前記認定を覆えすに足りない。

また、検察官は被告人は捜査官に対しその誘導によらず本件犯行に至る経緯、動機、犯行の内容、態様等を詳細に供述しており、その各供述は首尾一貫していること、被告人は本件犯行直前自己のアパートを出る際管理人に対し「当分帰れんかわからん、帰らなかつたら服もみなやる」旨告げて、本件犯行におよぶことを十分認識して事後のことについても言及していることが認められること、被告人が包丁を買い求めた際も「よく切れる包丁」を注文し、自らその選択をして合理的態度を示しているほか、自己弁護的、合目的的態度に出ていることなどから、被告人を心神喪失者と認めることは相当でないと主張し、さらに、現時における精神医学ひいては精神鑑定は限られた一部の科学的方法によるデーター等によつて検査するほかは患者の訴えを最大限に採用して診断するいわば原始的医学であるからこれが結論を軽々に採用してはならないと主張する。

そこでまず精神医学に対する批判についてみるに、なるほど精神医学が患者の訴を尊重することは検察官指摘のとおりであるとしても、当該鑑定書が資料およびその検討において相当であると認められる限りこれを否定することは慎重でなければならないものと考える。しかして本件各鑑定書はいずれもその点について非難すべきかどはなく、また、被告人が記憶していることとして述べるところは、当公判廷においてもまた前記各鑑定人の問診に対しても断片かつ微少にすぎないが、各鑑定人は鑑定時における被告人の記憶喪失の真偽を十分検討しているのであつて、この点につき各鑑定を否定すべき理由をみない。

次に被告人の捜査官に対する各供述調書が詳細でおおむね一貫していることは認めうるところであるが、当裁判所はこれをもつて被告人の意識に障害がなかつたものとはなしえない。その理由を述べると被告人の司法警察職員に対する昭和四一年一一月二二日付供述調書は、逮捕直後のもので捜査官において誘導する資料ないし知識の持ち合わせがなかつたものであるから被告人の記憶のみに基くものだとの検察官の主張については、本件当時被告人が携行していたものとみられる包丁のうち三本は逮捕現場で押収されており、その余の三本もその日のうちにいずれも被告人が引致取調べをうけた西成警察署の警察官によつて押収されており、かつ、本件目撃者らのうち五名は当夜のうちに右警察署において取調べをうけているのであるから、誘導する資料がなかつたといえるかどうかは疑問であるが、それはさておいても朦朧状態中に当該状態における体験を供述することは不完全ながらも可能なこと岡本、浅尾両鑑定書(各証言を含む)のともに認めるところである。また、被告人のその余の捜査官に対する各供述調書についてみるに、朦朧状態中およびその覚醒時から継続して取調べが行われた場合しばらくはその記憶が維持されるものであることは岡本鑑定書(証言を含む)で明らかなこと、前述のように他の証拠によつても結局被告人の足どりのたどれなかつた前記時間帯については被告人の各供述調書によるも被告人の行動が全く不明であるに反し、目撃者のある本件犯行およびその直前の被告人の行動は被告人の各供述調書において詳細であること、さらに被告人の行動不明の前記時間帯が被告人の各供述調書においては著しく短縮されて動機と犯行が直線的に結合していること、前述のとおり被告人の当公判廷における態度などにかんがみれば、被告人の取調べに当つて誘導はなかつた旨の当公判廷における証人合川勝、同原田勝の各供述はそのまま信用できない。

よつて被告人の捜査官に対する各供述調書をもつて被告人の意識に障害のなかつたことの証拠とすることはできない。

次に、被告人が自己のアパートを出る際および包丁を買う際の言動についてみるに、朦朧状態下にもまとまつた行動のあることは岡本、浅尾両鑑定書(各証言を含む)のともに認めるところであるから右と同様である。

さらに本件に顕われた各証拠を総合しても前記認定に支障を来すものはない。

しからば被告人の本件各犯行はいずれも刑法三九条一項にいう心神喪失の状況のもとになされたと認めるのを相当とするから刑事訴訟法三三六条前段により被告人に対し無罪の言渡をする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 古川実 川上美明 二宮征治)

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